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第五章「花道の決断」

作者: 佐薙真琴
last update 最終更新日: 2025-12-13 06:22:00

 それから一週間が過ぎた。

 真澄と蓮杖の関係は、表面上は何も変わらなかった。真澄は相変わらず毎日蓮杖の家に通い、彼の世話をしている。しかし、二人の間には、確かな変化があった。

 恋人としての距離感。

 蓮杖は以前より真澄に甘えるようになった。稽古から帰ると、真澄の肩に頭を預けて疲れを癒す。夕食の後は、二人でソファに座り、蓮杖の手が自然と真澄の手を探す。

 真澄もまた、蓮杖への接し方が変わった。以前のような「推し」への遠慮がなくなり、もっと自然に、もっと親密に接するようになった。

 しかし、真澄の心には、まだ一つの疑問が残っていた。

 自分は本当に、蓮杖の「すべて」を受け入れられているのだろうか。

---

 十二月も半ばを過ぎた頃、蓮杖が大きなニュースを持ち帰ってきた。

「真澄、聞いて。来月、新春大歌舞伎で大役をもらったんだ」

 夕食の席で、蓮杖は興奮気味に言った。

「大役?」

「ああ。『京鹿子娘道成寺』の清姫を、単独で演じることになった」

 真澄は驚いた。『京鹿子娘道成寺』は、女形にとって最も重要な演目の一つだ。清姫という、恋に狂って蛇に変身する女性を演じる。技術的にも、精神的にも、非常に難しい役だ。

「すごい……おめでとうございます!」

「ありがとう。でも、正直言って、不安なんだ」

 蓮杖の笑顔が、少し曇った。

「この役は、父も、祖父も演じてきた。鳳凰院家の伝統を背負う役なんだ。もし失敗したら……」

「失敗なんかしません」

 真澄は力強く言った。

「蓮杖の舞は、誰よりも美しい。絶対に成功します」

「真澄……」

 蓮杖は真澄の手を握った。その手が、わずかに震えている。

「でも、もし僕が失敗したら、真澄はどう思う? がっかりする?」

「そんなわけないじゃないですか」

 真澄は首を振った。

「蓮杖が失敗したって、私の気持ち

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  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   第五章「花道の決断」

     それから一週間が過ぎた。 真澄と蓮杖の関係は、表面上は何も変わらなかった。真澄は相変わらず毎日蓮杖の家に通い、彼の世話をしている。しかし、二人の間には、確かな変化があった。 恋人としての距離感。 蓮杖は以前より真澄に甘えるようになった。稽古から帰ると、真澄の肩に頭を預けて疲れを癒す。夕食の後は、二人でソファに座り、蓮杖の手が自然と真澄の手を探す。 真澄もまた、蓮杖への接し方が変わった。以前のような「推し」への遠慮がなくなり、もっと自然に、もっと親密に接するようになった。 しかし、真澄の心には、まだ一つの疑問が残っていた。 自分は本当に、蓮杖の「すべて」を受け入れられているのだろうか。--- 十二月も半ばを過ぎた頃、蓮杖が大きなニュースを持ち帰ってきた。「真澄、聞いて。来月、新春大歌舞伎で大役をもらったんだ」 夕食の席で、蓮杖は興奮気味に言った。「大役?」「ああ。『京鹿子娘道成寺』の清姫を、単独で演じることになった」 真澄は驚いた。『京鹿子娘道成寺』は、女形にとって最も重要な演目の一つだ。清姫という、恋に狂って蛇に変身する女性を演じる。技術的にも、精神的にも、非常に難しい役だ。「すごい……おめでとうございます!」「ありがとう。でも、正直言って、不安なんだ」 蓮杖の笑顔が、少し曇った。「この役は、父も、祖父も演じてきた。鳳凰院家の伝統を背負う役なんだ。もし失敗したら……」「失敗なんかしません」 真澄は力強く言った。「蓮杖の舞は、誰よりも美しい。絶対に成功します」「真澄……」 蓮杖は真澄の手を握った。その手が、わずかに震えている。「でも、もし僕が失敗したら、真澄はどう思う? がっかりする?」「そんなわけないじゃないですか」 真澄は首を振った。「蓮杖が失敗したって、私の気持ち

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   幕間「歌舞伎の世界」

     真澄が蓮杖と暮らすうちに学んだ、歌舞伎の深い世界。 真澄が初めて蓮杖の稽古場を訪れたとき、衝撃を受けた。 想像していた以上に、歌舞伎の世界は厳格で、伝統に満ちていた。--- 稽古場は古い木造の建物だった。床はすり減り、天井の梁には長年の煤が付いている。 師匠が座る上座には、神棚が祀られている。稽古生たちは、必ず神棚に一礼してから稽古を始める。 三味線の音色が響く中、蓮杖が舞う。 その動きは、一つ一つが意味を持っていた。 手の角度、指の曲げ方、目線の送り方。すべてが計算され、何百年もの伝統の中で磨かれてきた技術だった。--- 真澄は、蓮杖から歌舞伎の基礎を教えてもらった。「女形はね、ただ女性を演じるだけじゃないんだ」 ある夜、蓮杖が説明してくれた。「理想化された女性、というか。現実の女性以上に女性らしい存在を表現するんだ」「理想化……」「そう。だから、動きは実際の女性よりもずっと繊細で、優美でなければならない」 蓮杖は手本を見せてくれた。 扇を持つ手の動き。それだけで、女性の優雅さ、色気、恥じらい、すべてが表現されていた。「すごい……」 真澄は息を飲んだ。--- 化粧についても、蓮杖は詳しく教えてくれた。 女形の化粧は、「白塗り」と呼ばれる。顔全体を白く塗り、目元に紅を差し、眉を描く。「これがね、すごく時間がかかるんだ」 蓮杖は鏡の前で、実際に化粧をしながら説明してくれた。「まず、油を塗って、その上に白粉を重ねる。何層も重ねて、陶器のような質感を出すんだ」 真澄は魅了された。蓮杖の顔が、少しずつ「女形」に変わっていく様子を、間近で見ることができた。「目元はね、特に重要。女形の色気は、目で表現するから」 蓮杖は目尻に紅を差した。それだけで、印象が大きく変わった。

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   第四章「楽屋の告白」

     師走公演の初日。歌舞伎座は観客で埋め尽くされていた。 真澄は三階席に座っていた。以前と同じ、一番後ろの安い席。しかし、今の真澄にとって、この席は特別な意味を持っていた。 ここから、蓮杖の舞台を見る。彼が完璧な女形として輝く姿を。 そして、真澄だけが知っている。その輝きの裏に、どれだけの不安と努力があるかを。 幕が開いた。 三味線の音色が響き、舞台に光が満ちる。花道から、白拍子の姿をした蓮杖が登場した。 真澄は息を飲んだ。 美しい。圧倒的に美しい。 蓮杖の纏う打掛は紅白の鹿の子模様で、金糸が照明に煌めいている。白塗りの顔に紅を差した姿は、まさに人形のよう。しかし、その動きは生きている。しなやかで、優美で、魂が宿っている。 『娘道成寺』の舞が始まった。 白拍子花子が、道成寺の鐘の前で恋心を舞う。扇を持った手が空中を滑り、足が床を静かに踏む。その一つ一つの動きが、計算されていて、しかし自然で、見る者を魅了する。 真澄は涙が出そうになった。 素晴らしい。本当に素晴らしい。 これが、自分の愛する蓮杖の舞台だ。 しかし、真澄の心は複雑だった。 舞台の蓮杖は完璧だ。しかし、真澄は知っている。その完璧さの裏で、彼がどれだけ苦しんでいるかを。 昨日の朝、不安で震えていた蓮杖。「完璧でなければならない」という重圧に押し潰されそうになっていた彼。 真澄は、舞台の蓮杖と、普段の蓮杖の両方を知っている。 そのどちらも、愛おしい。 舞が終わり、幕が下りた。観客から大きな拍手が湧き起こる。真澄も必死に拍手した。 蓮杖、素晴らしかった。本当に素晴らしかった。--- 公演が終わり、真澄は楽屋口へ向かった。 蓮杖から、「公演が終わったら楽屋に来てほしい」と頼まれていた。真澄は緊張しながら受付で名前を告げると、案内されて楽屋の奥へと進んだ。 廊下には独特の匂いが漂っていた。白粉、鬢付け油、お香。歌舞伎の楽屋特有の、濃密

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~    幕間「真澄の推し活の記憶」

     これは真澄が蓮杖のファンだった頃の思い出。 真澄が初めて蓮杖を観たのは、二年前の春だった。 会社の先輩、佐々木さんに誘われて、歌舞伎座に行った日。真澄は正直、あまり乗り気ではなかった。「歌舞伎って、古臭くない?」 そう思っていた。 しかし、舞台が始まった瞬間、真澄の考えは一変した。--- 花道から登場した蓮杖。白拍子の姿で、優雅に歩く。 その美しさに、真澄は息を飲んだ。 これは、本当に人間なのだろうか。人形のように完璧で、しかし生命力に満ちている。 舞が始まると、真澄は完全に魅了された。 蓮杖の手の動き、足の運び、目線の送り方。すべてが計算されていて、しかし自然だった。 真澄は、生まれて初めて「芸術」というものを理解した気がした。--- 公演が終わり、真澄は放心状態だった。「どうだった?」 佐々木さんが尋ねた。真澄は言葉が出なかった。「……すごかった」 それだけしか言えなかった。「でしょう? 鳳凰院蓮杖、素晴らしいわよね」「鳳凰院蓮杖……」 真澄はその名を繰り返した。忘れられない名前になった。--- その日から、真澄の推し活が始まった。 まず、蓮杖のことを調べた。 鳳凰院家は、江戸時代から続く歌舞伎の名門。蓮杖は、その跡取り息子。幼い頃から英才教育を受け、十代で女形として舞台デビュー。 現在二十八歳。若手女形のホープとして、業界でも注目されている。 真澄は、蓮杖の過去の公演のDVDを買い漁った。雑誌の特集記事も全部読んだ。 そして、次の公演のチケットを取った。--- 二回目に蓮杖の舞台を観たとき、真澄は確信した。 この人が、自分の「推し」だ。 それから、真澄は蓮杖の公演には必ず足を運んだ。

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   第三章「揺れる心」

     十二月に入り、東京は本格的な冬を迎えた。 真澄は毎日、蓮杖の家に通うようになっていた。会社の仕事が終わると、まっすぐ彼の元へ向かう。朝食と夕食の準備、掃除、洗濯。そして、蓮杖の話し相手になること。 それは、奇妙な生活だった。 表向きは、真澄は蓮杖の「家政婦」のような存在だ。しかし実際は、もっと曖昧な関係だった。蓮杖は真澄に心を開き、舞台の悩みや、亡き母への想いを語った。真澄もまた、自分の日常や、仕事の愚痴を話すようになった。 二人は、友人のような、家族のような、しかしそのどちらでもない、不思議な距離感で暮らしていた。 そして、真澄の心は日々揺れていた。--- ある夜、真澄は居間で一人、考え込んでいた。 蓮杖は風呂に入っている。真澄は夕食の片付けを終え、ソファに座っていた。 自分は今、何をしているのだろう。 推しの蓮杖と一緒に暮らしている。それは、ファンとして最高の幸せのはずだ。しかし、真澄の心は複雑だった。 舞台の蓮杖を愛していた頃は、すべてが単純だった。遠くから彼を見上げ、その完璧さに憧れていれば良かった。しかし今、真澄は蓮杖の「素顔」を知ってしまった。 朝が弱く、コーヒーにうるさく、部屋を散らかし、稽古の後は疲れ切って無口になる。時折見せる、子供のような笑顔。母への深い想い。そして、女形としての重圧と孤独。 完璧ではない蓮杖。人間としての蓮杖。 真澄は、その姿に惹かれていた。 これは、推しへの憧れなのだろうか。それとも、一人の男性への恋なのだろうか。 真澄は頭を抱えた。「門野さん?」 振り返ると、蓮杖が立っていた。風呂上がりで、髪が濡れている。「どうかしましたか? 考え込んでいるようですが」「いえ、何でも」 真澄は慌てて笑顔を作った。蓮杖は少し首を傾げてから、真澄の隣に座った。「最近、疲れていませんか? 毎日ここに来てもらって」「大丈夫です。むしろ、楽しいですから」「楽しい?」

  • 推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~   幕間「猫のタマ」

     真澄が蓮杖の家で飼い始めた猫の話。 ある雨の夜、真澄は帰り道で子猫を見つけた。 段ボール箱の中で、小さな三毛猫が震えていた。まだ生後数ヶ月だろう。濡れた体で、か細く鳴いている。「可哀想に……」 真澄は子猫を抱き上げた。温かい。小さな命が、自分の腕の中で震えている。「このままじゃ死んじゃうわ」 真澄は迷わず、子猫を連れて蓮杖の家へ向かった。--- 家に着くと、蓮杖が驚いた顔で出迎えた。「真澄、それは……」「拾ったの。このまま放っておけなくて」 真澄は子猫を蓮杖に見せた。蓮杖は少し戸惑った顔をした。「猫か……飼ったことないんだけど」「お願い。この子、放っておいたら死んじゃう」 真澄は必死に頼んだ。蓮杖は子猫を見て、それから真澄を見た。「……分かった。飼おう」「本当!?」「ああ。でも、世話は真澄も手伝ってくれよ」「もちろん!」 真澄は嬉しくて、蓮杖に抱きついた。--- その夜、二人は子猫の世話をした。 温かいタオルで体を拭き、ミルクを飲ませる。子猫は最初は警戒していたが、次第に慣れてきた。「可愛いね」 蓮杖が呟いた。子猫は蓮杖の膝の上で丸くなっている。「名前、どうする?」「タマはどう? 三毛猫だし」「タマか。良い名前だね」 こうして、タマは鳳凰院家の一員になった。--- タマは、すぐに家に馴染んだ。 朝は真澄を起こし、夕方は蓮杖の帰りを待つ。夜は二人の間で眠る。 特に、タマは蓮杖に懐いた。 蓮杖が稽古から帰ってくると、タマは玄関まで駆けてきて、足に擦り寄る。蓮杖が居間に座ると、タマは膝の上に乗ってくる。「タマは僕が好きみ

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